Masahall Full Stack

マーシャルアンプとリッチー・ブラックモアとジョージ・リンチとスティーブ・ヴァイが大好きなマサハルのブログです。時々こっそりと過去記事を改訂しています。(笑)

私の音楽的歴史とハードロック略史(編集完了)

(※このシリーズは自分の記憶の整理ですので、他人様にはまったく面白くもなんともないと思われます。スルーしてくださって結構ですよ。)

 

ストラトキャスターの指板がスラブボードからラウンドに変わった1963年、ビートルズセカンドアルバムがチャート1位となった日に私は生まれたのだが、物心ついた頃には既に音楽を聴いていた。


ビートルズがコンサート活動を休止、100Wの出力を誇るプレキシ・マーシャルが誕生し、ジミ・ヘンドリクスやクリームがデビュー、ハードロックの黎明期となった1966年頃、団地の社宅に住んでいた両親は、モノラルのキャビネット型アンプ内蔵レコードプレイヤー(今思うとEL84搭載の真空管アンプだった)を購入して、3歳の私に童謡のレコードを聴かせていたようだ。「かわいいかくれんぼ」が好きで、トイレで便器に腰掛けて「ひよこがね お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ」と歌っていたらしい。

 

ビートルズが混迷期に入り、ヴァニラ・ファッジ、プロコルハルムなどが活躍、ディープ・パープルがカバーしたニール・ダイヤモンドの「ケンタッキー・ウーマン」がヒットした1967年頃にはテレビの主題歌が好きになった。マッハGoGoGo、スーパージェッターなどを歌っていた記憶がある。

 

ジェフ・ベック・グループ、レッド・ゼッペリン、ディープ・パープルがデビューし、ブラックサバスが結成され、ハードロック元年となった1968年。特に記憶なし。

 

クリーム、JHエクスペリエンスが解散し、ビートルズが事実上活動を終了した1969年、幼稚園の年長になった時に、私の両親は埼玉に土地を購入、持ち家を建てて舞い上がってしまった。なんとピアノ(アップライト型だがそれでもかなり高かったと思う)を購入し私と妹をレッスンに通わせたのだ。しかし私は冷徹な感じのピアノの先生が嫌いだったのでレッスンが嫌で嫌でしょうがなく、自宅でも遊びたいがためにピアノを弾くのが嫌で、2年ほどで止めてしまった。両親もさぞがっかりしたことだろう。だがそのおかげである程度譜面は読めるし、音感やリズム感も身について、ギターを習得する助けになったことは確かである。
そんなエピソードがちょっとだけジェイクEリーみたいでなんだか嬉しい。(笑)

 

「In Rock」でハードロックに転向したディープパープルが躍進し始めた1970年以降、私は仮面ライダーを筆頭にアニメや特撮テレビ番組主題歌がお気に入りの時代が続いた。

 

1971-72年、第二期ディープ・パープルは、「Fire Ball」、「Machine Head」を発表し活動を拡大していくが、まだまだ子供の私は知る由もない。

 

第二期ディープ・パープルの活動が停滞し始めた1973年頃「太陽にほえろ!」で先日亡くなったばかりの井上堯之氏のバンドが演奏するインストゥルメンタルな曲にも目覚めた。だがまだギターを弾きたいという衝動を起こすには不十分だった。

 

「Burn」が発表された1974年、小学校5年になって「電気(工作)クラブ」というものに入りラジオ製作をしたことから少し趣向が変わる。電池不要、コンセントにアンテナ線を差し込んでイヤホンで聴くゲルマニウムラジオでベスト10的な番組を聴き、流行りの歌謡曲を聴くのが楽しくなった。当時良く流れていたのは太田ひろみの「木綿のハンカチーフ」。

 

そして、先の記事の通り、ディープパープル解散後、「Ritchie Blackmoer's」の冠が取れたレインボーが始動した1976年になって、やっとロック=ギターに目覚めたのであった。